中村秀樹(北海道大学医学部助手)

展示室全景

北大総合博物館では2007年1月よりロウ製皮膚病模型moulage(ムラージュ)の常設展示を行っています。本邦では極めて珍しいムラージュ常設展示についてご案内します。

ムラージュとは「型による成形」という意味のフランス語です。カラー写真の無い時代に症例の記録や医学教育の為に盛んに用いられました。医聖ヒポクラテス(紀元前400年頃)は医師の技術について「過去の症状を説明し、現在の症状を理解し 、将来を予測すること。以上のことに習熟すること。」と述べています。このようにヒポクラテスの時代から、過去の症状を記録することは医術の基本でした。我々は生活の中に様々な「模型」見ることができますが 、医学の場でも目的に特化した「模型」を利用することが多くあります。本格的な人体模型は16世紀に始まり、17世紀に解剖模型が、18世紀にムラージュが、そして現代の手術トレーニングセットや3Dプリンターによる超精密臓器模型も同じです。これらは全てヒポクラテスの言う「医師の技術」を向上させる目的に特化した「模型」なのです。

医聖ヒポクラテス(紀元前400年頃)

北大皮膚科初代教授 志賀 亮先生

18世紀に始まるムラージュの中でも、皮膚病ムラージュは最も盛んに製作されました 。この皮膚病ムラージュの発展には、文豪ゲーテ(1749−1832)が深く関わるなど、歴史的に大変興味深いものです。皮膚病ムラージュは第1回皮膚科学国際会議(1889年パリ)で出品され、世界中の皮膚科学者の絶賛を得ました。しかし、当時その製作法は最先端技術であり、厳しく秘匿され一子相伝のように扱われていました。また多大な労力と財力を必要としたため、多数を保有できたのはごく一部の大学や大病院に限られました。日本へは1898年(明治31年)に東大皮膚科初代教授土肥慶蔵により、その製作法と共に紹介されています。北大皮膚科は1923年(大正12年)に北海道帝国大学皮膚泌尿器科として開講、初代教授志賀亮により開講 翌 年にはムラージュ製 作に着 手し、1960年代まで製作されまし た 。しかし、戦火や災害、経年劣化などで多くを喪失し、現在260点程が北大総合博物館で保管されています。中には現代では希な疾患や19 80年にWHOから根絶宣言がなされた「天然痘」の皮膚病ムラージュも展示してあります。「天然痘」は感染力が強く、致命率の高い疾患として紀元前から世界中で恐れられていましたが、種痘の発見により1977年ソマリアの症例を最後に地球上から消滅しました。そのため「天然痘」を直接目にする唯一の手段がこのムラージュであり、学術的に極めて貴重な資料となっています。

症状の記録や医学教育に盛んに利用された皮膚病ムラージュは精巧を極め、芸術の域にまで達しました。膨大な時間と高い技術で作成された皮膚病ムラージュを前にして、見学者はその再現力の高さに驚愕し、目を背けたくなるかもしれません。しかし、見学者が皮膚病ムラージュの医学的、歴史的、芸術的価値を知るのみで無く、その驚異的な精密さを目の当たりにして、人間の「病」に対する恐怖、「健康」を求める為に発揮しうる膨大なエネルギーを認識するよう導くことが本展示の目的です。

地球上から根絶された天然痘のムラージュ

ナイアシン欠乏症であるペラグラのムラージュ

『北海道大学総合博物館ニュース』39号(2019年9月)8ページより